Web画廊

Kanji Ueda Online Memorial Gallery

植田寛治

ごあいさつ

父子三代プロジェクト、遂に始動…!

昨年2月26日に私の父である洋画家・植田寛治が85歳で他界してからちょうど一年が経ちました。 その生涯を振り返るべく、私の息子でウェブ・エンジニアの植田颯生(さつき)が父の遺作470点余を集めたオンライン・ギャラリー「植田寛治 Web画廊」を自らデザイン、制作してくれました。 掲載されている作品は1959年から1984年にかけてのフランス滞在時代に描かれたパリをはじめとするヨーロッパの街並みから、帰国後の半生に描かれた京浜地区の普段見過ごしてしまいそうな情景の数々、落ち着きのある味わい深い色彩で描かれた静物、そして気品ある魅力に満ちた女性を描いた人物画等、父が生涯かけて心血を注ぎ込んだ油彩画に加え、遺された点数は僅かですが水彩画、リトグラフなど希少な遺作もあります。

きっかけは2018年末、プログラミング・スクールに通っていた息子の卒業制作の課題として「お祖父さんのオンラインギャラリーを作ってあげたらどうか」と持ちかけたのが始まりでした。父は普段から作品を撮影した写真の色の再現性には拘りを持っており、自ら画集などを作ることも嫌っていましたが、この提案には意外にもすんなり賛同してくれて拍子抜けしたことを憶えています(可愛い孫の学習課題となれば話は別だったのでしょうかね)。 当初はアトリエの壁に並べられている30点にも満たない作品数の掲載予定でしたが、諸々の不具合が重なり結局この時立ち上げたオンラインギャラリーのプランは完成を見ぬまま頓挫してしまいました。
その後、昨年になって父の突然の他界により遺作の整理と記録が私たち遺族の緊急課題となり、再び息子に力を借りることとなった次第です。今回はアトリエの二階の所蔵庫に眠っている作品も全て引っ張り出し、延べ5日間に渡り専門業者さんを呼んで作品のナンバリング、清掃、撮影を行い、上述の通り470点余を所蔵する巨大なオンラインギャラリーとなりました。孫の立ち上げたオンラインギャラリーを父の生前に完成させてあげられなかったことは残念な限りですが、父が一点一点精魂込めて描き上げた作品をこうして今、多くの皆さまに観ていただけることをきっと嬉んでいると想っております。

当オンラインギャラリーでは作品を展示するのみに留まらず、気に入っていただいた作品の無料での貸出し、寄贈のご注文も承っております。 ※詳細は別頁の「ご案内」をご覧ください 父・植田寛治の作品を広く皆さまにご鑑賞いただけることを願って、当サイトを運営してまいります。 どうかよろしくお願い申し上げます。

アトリエ 神楽(こうらく)
2021年3月
代表 植田多帆

作品

植田寛治が生涯を掛けて描いてきた作品を
ご覧いただけます。

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プロフィール

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植田寛治

画家

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略歴

1934(昭和 9年) 東京都大田区に生まれる。
1953(昭和28年) 麻布学園を卒業。志村計介、
高畠達四郎に師事。
1957(昭和32年) 東京芸術大学芸術学科を卒業。
独立美術展に出品。
1959−63
(昭和34-38年)
パリ国立美術学校ジャン・スーベルビー教室に学ぶ。
欧州各地の美術館等を訪れ古典に親しむ。
1963(昭和38年) この年より新樹会展に招待出品。
1965(昭和40年) 主体美術展に出品、佳作賞受賞。同会会員となる。
1970-72
(昭和45-47年)
滞仏。
1973-76
(昭和48-51年)
滞仏。
1977-80
(昭和52-55年)
滞仏。
1981-84
(昭和56-59年)
滞仏。
上記フランス滞在中、4度のサロン・ドートンヌ入選。
1978年にはサロン・デ・ボーザール入選。
1976-78
(昭和51-53年)
国際形象展に招待出品。 
その他主体美術関係グループ展にも参加。
主体美術協会会員。
横浜美術協会理事。
2020
(令和2年)
アトリエは東京都大田区蒲田。

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主体美術協会会員
榎本香菜子さんからの追悼文

高校3年間、故・森秀男のアトリエに出入りし、ウエダカンジという名前を時々耳にしていた。それから3年後、思うところありアメリカで外交官宅のメイドを2年弱やっていた。当時、朝日特派員だった筑紫哲也氏、後にカミソリ検事と言われた堀田力氏、FBI研修に来ていた平沢勝栄氏など皆若く、よく遊びに来たものだった。ゲストを迎える居間の壁に1枚の油絵が掛けてあった。それが植田さんの絵だったのである。全く知らすに渡米し、偶然にも、私が仕えていたN氏は麻布高校時代からの植田さんの大親友だった。麻布では共に美術部、俺たちは一生結婚しないぞ、と独身連盟を組んでいたと聞く。入院中も、亡くなった時もいち早く駆け付けたのはN氏だった。植田さんと顔合わせれば「Nさんとね、…」と切り出され、N氏と話していれば「ウエダ描いてい るらしいよ」と情報が入ったものだ。
植田さんには、色々な顔があった。総会で乱暴な言葉を発したり、審査中にキレて途中退場もした。しかし、ひけらかすごとは決して無かったが博識、勉強家ぶりが見え隠れす る。会場研究会でも、いたって丁寧、出品者への講評の言葉は美しく紳土だった。故・中川美智夫さんは最愛の飲み友達。その振る舞いは師を仰ぐが如く。
1959~1963年までパリ国立美術学校に留学。先生からは教室から出ていけ、と侮辱され駕倒される毎日。しかし最後には教室中でオレの話についてこられるのは君だけだ、とまで言わせしめた。異国で孤独に耐え、歯を食いしばりさぞ苦しい日々だったことだろう。帰国し結婚。二人のお子さんにも恵まれ1967年主体美術会員になるも1970~1984まで、出入国あったにせよ殆どフランス滞在。帰国後間もなかった頃の主体レセプションでのこと、最後の一本締めに「まるで◯◯ザみたいじゃない」と私の隣で呟いていたことが忘れられない。
1996年主体のパンフに「盲言多謝」という文を寄せている。ここに植田さんの作家精神を見る。公募展の矛盾を突きつつ、応募者にはただ一つ、作家としてのプライドと責任 を作家は孤であります、と語る。許せない根性の人閻とは同じ船に乗っていたくはない、勝海舟のエピソードまで載せている。 植田さんの葬儀、いつまでも心に残る。控え室に展示された絵画、アトリエキャビネット、棺には故人の愛用した筆を皆で入れた。いかなる時も作家の魂を失わなかった。その人が本当に信じているものだけが他者の心を動かし伝わるのだ、と強く実感した。
植田さん、天国でも描いていますか? 中川さんと、美味しいお酒を飲んでいますか?

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引用元(主体美術協会会報)

『僕のマニフェスト』

植田寛治

描けばどうせ向うとは大違い、を大前提として、向うのとおりにしようと頑張る、それが一番自分のとおりを導き出す。たとえその向うが写真ネタであっても、見たとおりに従って見るべきだ。
向うどおりは良くないと言ってる人にどれだけの真が保たれているのか。無自覚の怠け心の言い訳けに過ぎない。
まず、自分サイドに自分というものがしっかり持たれているということが必須条件である。描きながら自己を発見する、とは一見深い真実に聞こえるが、今になって向うの中に自分捜しを始めるというのもどうかと思う。絵描きやってれば過去からのいきさつで自分の無い奴はいない。いやらしい垢のようにたまっているものだ。だから新しい自分捜し、日々新しく生れ変わるんだとおっしゃるが、この先何十年生きておいでの御予定か先生の頭を疑いたくなる。ガンバレ、ガンバレ!
分裂しないように彷徨しないようにと結局は自己撞着に陥いるのみだ。
自然の前で頭(コウベ)を垂れ自分を無にする、それは自分というものの分量を少しく犠牲にすることになるかも知れないが、自分が客観化する唯一の道だ。他人の目のはね返りで自己を確認するという物欲しそう内的感覚を避けられる。リアルと同盟関係を結んだ自我。少しコワもて気味かね。
世界の環境はどんどん変化して行く。その中に居る自分としての眺め肌ざわりを求める以外に僕にとってのリアリズムはない。存在物として、画面に新しい環境を提供しようなど大それたウサン臭いことを思うまい。
高級にという願望が既に怪しい。少しく安っぽく、低俗で平凡な方が、即ち写真のようなが、かえって現代の相を映し出し、従って本物なのかも知れない。世間の目からウロコが落ちるのかも知れない。
高級、本格という掛け声は過去の誰かの真似に安住しようということだろう。
完全とか根源的とか人間的、宗教的とかお言葉にはややもすると懐かしくノスタルジーをかきたてられる。油絵がフランス的であったりする必要も理論上ありはしない。
しかし調子っぱずれのデタラメは容認しがたい。何故ならそれは絵ではなくポンチになってしまう。クラシックとは規範的という意味だそうだ。
絵は画面自体真物の世界になるのを目指す。まだまだと描きこむ。絵の具にコッテリとしたボディを与えて見る。オーソドックスになることを怖れるな。古臭くなって見ろ。昔の人達は一筋縄ではいかないと知れ!

(大田区美術協会会報寄稿)

植田寛治_若い